HISTORY

関口陽介とヤーゲンセン

まだまだ知られていないヤーゲンセンについて。

現在知られている時計ブランド名として、【ウルバン・ヤーゲンセン&ゾナー】が知られていますが、時計師としてのヤーゲンセン一族の歴史は幾代にも受け継がれており、「ウルバン・ヤーゲンセンやユール・ヤーゲンセン」という同じ名前の時計師の方も世代を超えて何人も存在します(ミドルネーム等に入れられて)。歴史的資料の家系図(JurgensenFamilyTree)も現存します。それらを少し紐解いていきます。

ブレゲと同じ時代を生きたヤーゲン・ヤーゲンセン....

家系図などの資料を捜すきっかけは、スイスル・ロックル在住の「時計師「関口陽介氏」と話をしている時です。「ウルバン・ヤーゲンセンの名前はよく耳にしますが、ユール・ヤーゲンセンやその他ヤーゲンセン一族について、知られていない事が殆どです。ル・ロックルに何か資料等はありますか?」と質問しました。数日後、関口氏からル・ロックルからフランス側に向かった山中にあるヤーゲンセンの塔に行かれた写真を送ってくれたのです。順に紐解くと、現在残っている家系図の中のヤーゲンセン一族は、1747年~1823年に活躍した「時計界のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と形容される時計師アブラアン・ルイ・ブレゲと世代的にも近い1745年~1811年に時計師として活躍した“ヤーゲン・ヤーゲンセン”が始まりである事が解りました。“ヤーゲン”の子どもたち6人の中のひとりが、1773年に同ブランドを創業した“ウルバン・ヤーゲンセン”にあたります。他の息子達にも優れた時計師が存在し、その中のひとりがウルバン・ヤーゲンセンより11歳年下の“フレデリック・ヤーゲンセン”です。フレデリックは、“Georg Urban Frederik Jurgensen(ジョージ・ウルバン・フレデリック・ヤーゲンセン)”へと引き継ぎ、後々は主流となるブランド【ウルバン・ヤーゲンセン&ゾナー】を創業したルイ・ウルバン・ヤーゲンセンとは異なりますが1863年まで時計師として活躍し生涯を全うしました。

デンマーク王室御用達時計師となったウルバン

ヤーゲン・ヤーゲンセンは、当時でも優れた技術の時計師であり、息子のウルバン・ヤーゲンセンは、父ヤーゲンの意思を継いで時計製造に関する様々な主要拠点、フランスのパリやイギリスのロンドンだけでなく、スイスのジュネーブやル・ロックルなどで修行を積んで行きました。その後ウルバンは当時のデンマーク国王“フレドリック6世”の目に止まり、デンマークのコペンハーゲンに移り住み、海軍の為に正確な時計としてのマリンクロノメーターや懐中時計など王室御用達時計師【宮廷時計学者】として任命されました。しかしそれだけに留まらず、たくさんの貴族からの要望も受け品質の高い時計を作り続けます。ウルバンの没後は、二人の息子“ルイ・ウルバン・ヤーゲンセン”と“ユール・フレデリック・ヤーゲンセン"が、父ウルバンの技術と伝統を受け継ぎます。兄のルイ・ウルバンはコペンハーゲンに残り、父ウルバンが築いた工房を引き継ぎ時計工場へと拡張。社名を【ウルバン・ヤーゲンセン&ゾナー】へと変更し、高品質な時計を作るブランドとして広くに知られるようになります。一方弟のユール・フレデリックは、当時より時計製造の中心地であったスイスル・ロックルに戻り、父ウルバンより学んだ時計本来の伝統的技法を守り、時計作りを世に広げて行きました。スイスル・ロックルに移った弟のユール・フレデリック・ヤーゲンセンは生前、Le-Locle(ル・ロックル)と隣の集落のLes-Brenet(レ・ブルネ)との間、現在のChristopheClaret(クリストフ・クラーレ)社の裏手の辺りにヤーゲンセンの塔を建設します。ユール・フレデリックがどうしてこの塔を建てたのか、歴史的研究がされている書籍もあります。当時の子供向けの「ヌーシャテルの伝説」という本によると

1870年に彼がこの約12メートルの塔の建設を始めた時は、ブルネの住民はからかって馬鹿にしていた。「故郷のデンマークを眺めていたのではないか」「自然のきれいな景色を眺めたかったのだろう」彼は夢見ていた。この塔の上に立つのは至上の喜びだ!彼はもちろん自然を愛した。だが、実はそれはもう一つの大きな愛のためであった。彼の公にできない愛しい人と、唯一そこなら人に知られずお互いを遠く見つめ合う事が出来た。真実はどうであったのだろう?今となっては誰にもわからない、わからないままにしておくのがいいのだろう。というあらすじです。