HISTORY

関口陽介とヤーゲンセン

この碑は、その愛情、愛の成就のための文であると捉えることもできるという説があります。いや彼がこの塔を建てたのは時計師として身を立てていた後で、天文観測用だったとの説もあります。様々な方面からかなり詳しく調べた研究本もあるようですが「真実は彼のみぞ知る」というところです。この塔の横に置かれている碑に刻まれている言葉は、『Onn'estJamaisVainculorsqu'onestimmortel』直訳すると《不死身のとき、あなたは決して負けない》となります。中世ヨーロパで流行した「いつか必ず訪れる死を忘れるな」「人は必ず死ぬのだから、生に執着してはいけない」という概念が思い起こされます。
関口氏は中学生の頃、祖母が書いた「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」の言葉を部屋に貼る少年でした。その言葉が自身の人生に大きな影響を与えたことから「死を意識する事で惜しみない努力で生を全うする」という考え”メメント・モリ”(ラテン語で「死を忘ることなかれ」という意味の警句)は、関口氏の【座右の銘】でもあります。また関口氏曰く「いろいろ考えられますが、私は自分を時計作りのために鼓舞させる好いフレーズだと思っています。時計作りの為だけでなく、日々の生活で愛情であり夢であり様々な思いの中、日々強く思い行動することが大切であることを感じながら、日々の時計作りに取り組んでいます。」

ユール・フレデリックが目指した真の時計作りとは

ユール・フレデリック・ヤーゲンセンは、1877年12月に、69歳で生涯の幕を降ろすまで新たな機構の開発にも取り組み、負荷の掛かり難く美しいムーブメントの製造に専念しました。家庭に於いても、ユール・フレデリックは5人の子どもに恵まれ、そのうちの息子二人“ユール・フレデリック・ウルバン・ヤーゲンセン”と“ジャッケ・アルフレッド・ヤーゲンセン”へと技術が受け継がれて行きます。1900年に開催されたパリ万国博覧会に出品した懐中時計では、グランプリを受賞するなど輝かしい実績を残します。一方、ユール・フレデリック・ウルバン・ヤーゲンセンは、1919年に【ユール・ヤーゲンセン・コペンハーゲン】ブランドとして腕時計の製造をはじめます。

それぞれへ受け継がれたヤーゲンセン

技術の伝承は息子だけに留まらず、娘の"アナスタシエ・ソフィー・ロザリエ・ヤーゲンセン”や“ソフィー・リディー・ヤーゲンセン”にも継がれ、それぞれの家系で《ヤーゲンセン》ブランドの時計が作られ、それは1970年代まで生産されて行きます。また1835年、デンマークで時計ブランド【ウルバン・ヤーゲンセン&ゾナー】を経営していたルイ・ウルバン・ヤーゲンセンは、1800年代中頃に“ウルバン・オーギュスト・ヤーゲンセン”へと引き継がれますが、オーギュストは若くして亡くなり、その後ブランドは途絶えてしまいます。しかしその後も様々な株主の下、デンマークでウルバン・ヤーゲンセンの看板を掲げた時計店として経営は続けられていきました。

復活と新たなヤーゲンセンへ

1970年代に入り、偶然デンマークを訪れたスイス人時計師“ペーター・ボームベルガー”氏が1978年から交渉を繰り返し、1985年に残っていた商標権や全ての資産を買い取り、デンマークからビエンヌへと工房を移し時計製造を再開させました。直ぐに、Ref.1カレンダークロノグラフを発表します。実はそれに携わっていたのは、デレク・プラット氏や(関口陽介氏が後に師事)時計師ゲルト・ベレント氏で、ボームベルガー氏がデレク、ゲルト氏らと共にチームを結成します。ウルバン・ヤーゲンセンを再建させるべく集まった知る人ぞ知る“スペシャルドリームチーム”でした。デレク氏は後に、コアクシャル脱進機を開発したジョージ・ダニエルズ氏より依頼を受けて極小のコアクシャル脱進機を製作し供給するなど影の立役者としても知られている時計師です。その後、ボームベルガー氏の元で2009年に亡くなるまで働いてます。ゲルト氏は、1931年ベルリン生まれです。1940年第二次世界大戦の時のベルリン空襲で家や家族全てを失いました。親戚を頼り1人で汽車に乗ってスイスに来たのが14歳の時です。親戚に世話になりながらドイツ語圏の時計学校に入り、見習いを終えた時に初めて買った工具が切削工具。それは石の研磨に使うエ具でした。これをゲルト氏が亡くなる少し前に関口氏は譲り受けます。関口氏には師匠との大切な思い出の一つです。ゲルト氏は、時計学校卒業後ユリス・ナルダン、ロンジン、エベルと腕を磨き、ゼニスには長く勤続しました。ミラノにも赴任し、イタリアから戻るとフルリエに住まいを置き、ショパールで後輩時計師の技術の育成に貢献します。後にジラール・ペルゴに勤務し1889年のパリ万博に出品された“ラ・エスメラルダ”の修理や、その他の複雑系の修復などに携わります。筆者自身、2007年にペーター・ボームベルガー氏とバーゼルで会う機会を得ました。その2年後に急逝され、大変な驚きでした。ボームベルガー氏との親交の深かったオークション会社を経営されていたドクター・クロット氏が、そのまま経営を引き継ぎます。さらにクロット氏の友人でもあり実業家でもあるデンマーク人の時計コレクターであるゾーレン・ジェンリー・ペーターセン氏を共同経営者として招きます。